福岡の音楽シーンにおいて、強烈な存在感を持ち続ける音楽家・山部善次郎。その名前が広く知られるようになったのは、彼が14歳のときに6600ボルトの感電事故を経験したことに起因します。
この衝撃的な事故で、左目と鼻を失いましたが、それでも彼の情熱は失われず、音楽家としてのキャリアを切り開き、今もなお福岡の音楽シーンを盛り上げています。この記事では、山部善次郎さんの現在の活動を振り返り、その独自のキャリアと人生に迫ります。
- 山部善次郎とは?6600ボルトの事故で仰天
- 山部善次郎のプロフィール
- 山部善次郎の経歴
- バンド活動の歩み:山善&博多パラダイスから現在まで
- 最近の活動と芸術的挑戦
山部善次郎さんについて興味のある方は、是非ご覧ください。
山部善次郎とは?6600ボルトの感電事故の衝撃
山部善次郎さんは福岡市博多区出身の音楽家で、彼の名が一躍有名になったのは、14歳のときに起こった6600ボルトの感電事故体験によるものです。
この事故により、彼は左目と鼻を失い、一時は命の危険にも晒されました。しかし、彼はその壮絶な体験を乗り越え、音楽の道を貫き続けました。
事故後も音楽への情熱は冷めることなく、彼はその後も音楽活動を続け、福岡の音楽シーンにおいて重要な存在となりました。山部さんの生き様は、彼自身の強い意志と、音楽に対する絶え間ない情熱がいかに大切かを示しています。
山部善次郎のプロフィール
- 名前:山部善次郎
- 出身:福岡市博多区千代町
- 生年月日:1954年9月25日
- 年齢:70歳
- 学歴:福岡教育大学附属福岡小学校 → 福岡市立警固中学校
→ 博多商業高等学校 → 九州産業大学 - 職業:音楽家、画家
山部善次郎さんの経歴を見ると、音楽家としてだけでなく、彼の育ちや学歴も興味深いものです。彼は紙問屋の家に生まれ、福岡教育大学附属小学校から福岡市立警固中学校へ進学し、その後博多商業高等学校に進みました。
彼の音楽的な道を切り開いたのは中学時代で、ローリング・ストーンズの「テル・ミー」を歌おうと練習を始めたことがきっかけでした。
山部善次郎の経歴
山部善次郎さんの音楽キャリアは波乱に満ちたものです。
彼が音楽の道に進むきっかけは、中学時代に始まった音楽への興味です。ローリング・ストーンズを聴き、音楽に強く惹かれた彼は、高校時代にビートルズやモンキーズの影響を受け、バンド「田舎者」を結成。
博多の伝説的なライブハウス「照和」のオーディションに合格し、彼の音楽人生がスタートします。
大学在学中も、彼は「SMILE」や「博多テディボーイズ」といったバンドで活動し、後に日本初のパンクバンドを自称する「THE DRILL」を結成しました。
しかし、「THE DRILL」は短命で終わり、その後も幾多のバンド活動を経て彼の音楽キャリアは続きます。
バンド活動の歩み:山善&博多パラダイスから現在まで
山部善次郎さんのバンド活動は、彼自身の音楽スタイルと生き様が色濃く反映されたものであり、彼が福岡の音楽シーンで特別な存在であることを物語っています。
特に「山善&博多パラダイス」時代からの歩みは、山部さんの音楽活動の中で最も注目すべき時期です。以下に、彼の代表的なバンドとその活動を振り返りつつ、深掘りしていきます。
山善&博多パラダイスの誕生
- 結成時期:1978年
「THE DRILL」解散後、山部さんは再び音楽への挑戦を決意し、結成したのが「山善&博多パラダイス」です。このバンドは当時の福岡ロックシーンに新たな風を吹き込み、彼の個性的な音楽スタイルが多くのファンに受け入れられました。
- メジャーデビューのチャンス
徳間ジャパンからのアルバムリリースの話が持ち上がり、バンドはメジャーデビュー寸前までいきました。ここでの大きなポイントは、山部さんが録音の出来に納得できなかったため、このチャンスをあえて断ったことです。
彼にとって、納得できる作品を世に出すことが重要であり、妥協を許さないその姿勢が彼の音楽哲学を表しています。
多くのアーティストがメジャーデビューを一つの成功と捉える中で、山部さんの決断は異色です。納得できない作品を世に出すくらいなら、チャンスを捨てるという姿勢は、商業的な成功よりも自己の表現を重視する彼の独自の価値観を象徴しています。
彼の音楽は常に彼自身の内なる声に従っており、それがファンにとっても魅力となっています。
山善&Midnight Special:インディーズ時代
1984年、音楽活動を再開させた山部さんは、新たなバンド「山善&Midnight Special」を結成しました。メンバーには福岡の音楽シーンで名を馳せる坂東嘉秀や石橋三喜彦などが加わり、再び注目を集めました。
1stシングル「キャデラック」のリリース:このバンドはインディーズで1stシングル「キャデラック」をリリースし、福岡のロックシーンに再び衝撃を与えました。
山部さんの復活を待ち望んでいたファンにとって、これは彼が再び音楽の世界に戻ってきたことを示す象徴的な出来事でした。
この時期は、インディーズレーベルが台頭し、独自の音楽スタイルを持つアーティストたちが注目を集める時代でもあり、山部さんもその波に乗り、インディーズという自由な場で彼自身の音楽性を存分に発揮しました。
メジャーには頼らずとも、自分の表現を貫ける場があったことが、彼の音楽活動の再出発に大きな意味を持っています。
山善&DYNAMITE:新たな挑戦
1985年に結成された「山善&DYNAMITE」は、彼の音楽活動の中でも特に重要なバンドの一つです。
ここでも福岡の実力派ミュージシャンが集まり、1stアルバム「DANGER」をリリース。このアルバムは、彼の音楽性がさらに進化したことを示し、ロックの枠に留まらない幅広い音楽的挑戦が展開されました。
アルバム「DANGER」は、山部さんが単なるロックアーティストではなく、多様な音楽ジャンルを融合させるクリエイティブなアーティストであることを証明。
彼の音楽には、ブルースやフォークなど、さまざまな影響が反映されており、それがファン層をさらに広げることにつながりました。
この時期の山部さんは、福岡の音楽シーンだけでなく、日本全体のインディーズシーンでも影響力を持ち始め、単なるロックの枠に収まらず、より自由で、自己表現の場としての音楽に進化していきます。
このアルバムはその転換点となり、彼の音楽キャリアの新たな方向性を示す重要な作品です。
最近の活動と芸術的挑戦
山部善次郎さんは、音楽活動と並行してアーティストとしての活動も広げています。彼は39歳のときに油絵を始め、福岡県展や朝日新聞賞での入賞を果たし、画家としても高い評価を受けています。
音楽とアートの両方で自己表現を続けており、ライブ活動と個展を定期的に開催しています。
音楽活動においては、「YAMAZEN&Blues Fellows」、「YAMAZEN&BEGATTA」、「YAMAZEN&幌馬車」というバンドで精力的に活動しています。
YAMAZEN&Blues Fellows
ブルースを中心とした音楽スタイルで、福岡を拠点に全国的にライブを展開しています。TAD三浦やナガサキスリムなど実力派ミュージシャンが参加し、山部さんの情熱的なパフォーマンスを支えています。
YAMAZEN&BEGATTA
より幅広い音楽性を持ち、ロックやフォークの要素を取り入れたバンドです。山部さんの豊かな音楽的バックグラウンドを反映し、白井兄弟などのメンバーとの相互作用が、ライブごとに異なるサウンドを生み出しています。
音楽とアートの両面で活躍する山部さんは、常に新たな挑戦を続けています。音楽活動では、ブルースやロックの伝統を受け継ぎながら、独自のスタイルで表現を進化させています。
ライブでは、観客との一体感や即興的なパフォーマンスが魅力となり、常に新鮮なステージを提供しています。
まとめ
6600ボルトの感電事故という壮絶な体験を乗り越え、山部善次郎さんは音楽や芸術を通じて自己表現を続けています。
彼の妥協を許さない姿勢や情熱は、福岡の音楽シーンにおいて多くの人に影響を与えました。今後も、彼の活動は続き、多くのファンを魅了し続けることでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。