周囲が空いているのに(あえて)隣に座ったり、駐車したりする人のことを指す言葉、「トナラー」が一般的になりつつあります。
皆さんの中にも
- 「え?ほかにも全然空いてるに!」
- 「なんでわざわざここ?」
そんな経験をしたことがある、という人も多いのではないでしょうか?
ネット上ではトナラーの心理学的解説から、はたまた「相互理解を深めようぜ!」という話まで、様々な意見が噴出しています。
そこで、本記事では、
- なぜトナラーでない人はトナラーを気持ち悪く感じ
- トナラーはトナラーの言い分を語り、
- 結局はルールでNGかどうかを論点にすり替えてしまうのか
について車トナラーを例として徹底分析しました。
意見は分かれてもトナラーに対して関心のある方は、是非ご覧ください。
トナラーは気持ち悪い?
- 自分は〇〇の理由で〇〇の行動をしている
- 他者は△△の理由で△△の行動をしている
このような状況整理が難しい時、人はその居心地の悪さを「気持ち悪い」と感じます。
- 「他にもメッチャ空いてる場所あるじゃん」
- 「なんで端っこに止めてる自分のわざわざ隣に止めるよ!」
- 「ウザい。気持ち悪い」
- (事実)自分のとなりに車が止まってる
- (感情)意味不明!
- (真実)気持ち悪い!!
これが自然な人間の気持ちの動きです。ここで、
「どうして隣に止めたんだろう?どんな事情があったんだろう?」
と事実と感情を切り離し、真実を考えるのは非常に困難です。
だって、あえて遠く離れたその場所に止めた人にはその人なりの理由(正義)があり、その隣にとめた人の理由(正義)なんて、普通は考えないから。
だから生まれる「気持ち悪い」という感情。
それでは、100歩譲って、トナラーの言い分を聞いてみましょう。
トナラーの言い分
- 隣に車があった方が駐車しやすい
- 自分の駐車場所確認の目印としたい
- そばに車があった方がいたずらのリスクが減る
- 広場恐怖症(そばに何かを置きたい)
以上が主な言い分としてよく語られるものですが、
トナラーの言い分は、誰にも迷惑を掛けていない(車をはなれて止めている)誰かに、少なくとも心理的ストレスを与えている以上は身勝手に聞こえます。(もちろん病気が原因であればまた別の話となります)
更に、トナリング行為が悪意ある故意である可能性が皆無ではない、ことまで考えると、トナラーの分はもっと悪そうです。
結局、あなたもトナラーも自己中と言えば自己中なのですが、他者に迷惑を掛けない自己中は普通は問題となりませんもんね。
ここまで話がかみ合わないと、よく出てくるのが開き直りの正論。
ルール違反してない限りどこに止めてもOK
確かに、「隣接駐車を禁ずる」みたいなルールを設けている駐車場はない?と思われます。
だからと言ってルールになければなんでもOKか?と問われれば、YESと答えるのにためらいを感じる人が多いのも日本の特徴。一方、「ルール」という言葉が出た時点で、議論は一挙に停滞。
ルールについて、多民族国家ではお互いの違いを感情で処理しないためにその細分化が進み、日本では・・・
日本は同一民族国家で、「阿吽の呼吸」=同調気質に重きを置いてきた歴史があり、「わかるよね~」、「察してよ~」という意識がいまだに残っています。
この甘え?により、ルールは最低限で運用は当事者に委ねるのが日本式。
であれば「ルールになければなんでもOKか?」という問いには、条件付きYESという回答になるはずです。
そして、その条件は「相手に迷惑を及ぼす自己中行為は避ける」に集約されるのでは?
まとめ
・トナラーは気持ち悪い?
人間は自分に理解できない事を「気持ち悪い」と感じる癖がある以上、そのような感情をもったとしても責められない
・トナラーの言い分
その多くが誰かにストレスを与える「自己中」で、誰にもストレスを与えないであろうトナラー批判者の「自己中」とはそもそも異なる、噛み合わない
・ルール違反してないんだからOK
ルール自体が細分化されていない日本でのOKには条件があり、それは「相手に迷惑を及ぼす自己中行為は避ける」ということ
この手の議論が起きると、「日本は平和」。それに比べてどこそこの国は・・・のような論評が起こり、結局うやむやになってしまう令和の日本。
寛容性とは誰かが許される事ではなく、誰かを許すことでもない。みんなで許しあうこと。そのために不自由をちょっとづつ皆が受け入れる事。そんな日本なら「平和ボケ」も、OKじゃない?
もちろん、ドアパンする人間が少なければ遠くに車を止める人も少なくなるでしょうし、その意味ではドアパンを無くしていくのも大切でしょうし、トナラー批判をする側も場面変わればトナラー化していないか、自分に問いかけることも必要ですけどね・・・
最後までお読みいただき、ありがとうございました。